ピッグとソロ歌手デビュー(1971〜1975)22歳〜26歳
タイガース解散後、ジュリーとサリーは他のグループサウンズ(ショーケン・大口さん、井上尭之さん・大野克夫さん)と「PYG」を結成し本格的なロックを目指します。
当時のロックファンからは、なかなか受け入れてくれなかったんですが後になって当時の音楽性を再評価しています。
ともあれ、自分達の好きな音楽をやれたという事で、この期間はジュリーとっても楽しい時期だったようです。
間もなくショーケンは俳優活動にウェイトを置き、ジュリーはジュリーでソロ活動も並行し、PYGは自然消滅してしまいました。
ショーケン以外のメンバーは「井上堯之バンド」とし、ジュリーのバックバンドを担当。歌謡史上初めて専属バンド付きの歌手が誕生した訳です。
その後の活躍は飛ぶ鳥を落とす勢い。「タイガース」のジュリーから「スーパースター」沢田研二へと見事に変貌を遂げました。
この頃はまだお化粧はなし。
ただただ美しく、幻想的で、繊細で…まさに「硝子のジュリー」という印象でしたね。
TVのドアップに堪えられる数少ない被写体だったからか、目の表情から指先の動きまで、舐めるように映し出してくれました。
カメラの方さえもジュリーに魅了されていたのではないかな?byくみこ
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中学の時、アルバイトをして貯めたお金で真っ赤なレコードプレイヤーを買いました。
それまでに出ていたタイガースのレコードを買いあさり、毎日毎日聴いていたのですが、ある日、突然動かなくなってしまい、ジュリーの歌が聴けなくなってしまったのです。
でも、ジュリーの声が聞けない毎日が耐えられるわけありません。
かと言って、新しいプレイヤーを買うお金もなく・・・;;
そこで私は、「そうだ!だめでもともと!自分で直そう!」と思い、プレイヤーをひっくり返し、線を全部つなぎなおし、「かみさま〜」と言う思いで恐る恐るレコードをかけてみました。
なんと、修理成功!! 嬉しかった〜〜〜! 人間、本気でやれば出来ない事はないのだと、ジュリーから学びました(笑)
今でも、実家にその赤いプレイヤーは残っています。 「これは、ゼッタイ捨てないでね」と言って、お嫁にきました(笑)
あれから〇十年、まだ動くのかな〜byとも
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姉は札幌東急ホテルに勤めていたのですが当時なべプロのスターは東急に泊まってたらしいです。
ジュリーが泊まったとき、ルームサービスの注文があり、まわりの従業員は姉がジュリーのファンだということを知っていたので、部屋へ食事を運ばせてくれたそうです。
後片付けに行ったとき、ちゃっかり割り箸とタバコの吸殻を持ってきたとか先日それはどうしたかと聞くと無くしてしまったとか・・・あ〜なんたることか(TT)
そうそう、そのころからジュリーは食事は決して残さず、気持ちいいほどきれいに食べていたということです^^ byよっぺ
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1971年11月、自分のお小遣いを貯めて初めて買ったレコードが「君をのせて」です。
ジュリーがソロで出す最初のシングル....ドキドキしながら針をおいたのを覚えています。
バラード調でなんだか難しいな〜というのが正直な感想で当時はB面の「恋から愛へ」の方をよく口ずさんでいました。
時を経て「君をのせて」を新たに聴いてすごくいい曲〜と気付きました。心が寛容になれる気がします。byたか
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この頃はジュリーに会いたくて、せっせとバイトをしては夏休み・冬休みに夜行列車に飛び乗り(寝台ではありません。
4人がけの座席の回転しない固いイスでした)、青函連絡船に乗り 、また列車に乗るという長〜い旅をして東京へ行っていました 。
「田コロ」も「解散コンサート」も行ったはずなのに肝心のステージの上のジュリーの記憶がな・い・・・?
ただ、泣きながら歌った「ラヴ・ラヴ・ラヴ」だけは今でも忘れられません。byのり
スーパースターとして君臨(1976〜1980)27歳〜31歳
75年に大きな出来事が2つありました。ジュリーの結婚と新幹線暴行事件!
76年にも第2の新幹線暴行事件を引き起こし自ら1か月の謹慎生活を送ります。(我慢できない中傷だったから周囲は同情的でしたが)
復帰後も人気は衰えず、翌77年には「勝手にしやがれ」でついに日本レコード大賞受賞。まさに歌謡界の頂点に立ったのでした。
奇抜なファッションやパフォーマンスを交えて全身全霊で歌うジュリーの様は「3分間のドラマ」と称され、新しい事にも次々に挑戦していくジュリーの姿勢は
時代の「先駆者」として音楽史上に多くの功績を残しました。
75年からの活躍は見事でした!
コンサートのみならず、TVに映画に舞台にと、多方面で引っ張りだこの人気ぶり・活躍ぶりでした。
今でも、レコード大賞受賞曲『勝手にしやがれ』の映像はTVで時々流れますよね?
この頃からピアスやお化粧が徐々に始まり、性別を越えた色気とパフォーマンスで世間の目を釘付けにした事は言うまでもありません。
「8時だよ全員集合」のコントではお笑い系ジュリーも披露!
ジャンルを越えたエンターティナーぶりは、まさにスーパースターそのものでした。
何をやらせても不思議なくらいカッコ良い。
この頃のTVはお茶の間に1台っきり。親と喧嘩しながら毎日のようにジュリーに見入っていましたbyくみこ
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☆美しいものは美しい
先日TVで若かりし頃のジュリーの映像が流れた。
それを観た職場の友人が「きれいだよね〜!今のキムタクなんて比じゃないね」だって!そうでしょそうでしょ^^
昔もう亡くなったおばあちゃんが「昔の上原 謙はジュリーよりもきれいだったよ」って言ってたっけ・・・
でももう今後ジュリーのような星の王子様みたいな美しい男性は現れないと思うな〜!
☆そんな星の王子様を産んでくれたご両親にあかの他人の私がお礼を言いたい。
「ありがとうございます。お2人が結婚してくれたお陰です!」byよっぺ
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「時の過ぎゆくままに」(1975年)の大ヒットの後、暴力事件によって謹慎していたジュリー。
翌年の秋に「コバルトの季節の中で」という、素晴らしい楽曲ができあがりました。
これは、小谷夏・作詞です。今は亡き久世さんの詩ですね。
ジュリーに対する愛情がひしひしと感じられました。
こんなにも、ジュリーのことを思ってくれている人がいるんだな〜と、思いました。
ことごとく、ジュリーを批判し、罵倒したマスコミが多い中、「骨のあるやつだと思った」と仰った方もいらっしゃいました。
決して、暴力は肯定できませんが、ファンをなじられたゆえの怒りを抑えられなかったジュリー・・・ジュリーへの思いをゆるぎないものにしたのは、このときだったと記憶しています。
その後、「まわりの20人くらいには良い人になれるけど、すべての人には良い人にはなれない」と仰ったジュリー。
なんて正直な人だろうと思いました。
私も、正直に生きよう・・・と心に誓ったのでした。byとも
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この頃ジュリーはラジオ番組を持っていましたよね。
いつも聴いているだけの私だったのですが、何故か急にリクエストをしたくなり「ヘイ!ジュテーム」をリクエストしました。
必ずエピソードを書かなくていけなかったのですが何を書いたのかはどうも今も思いだせません。
読まれる訳などないと思っていたある日突然私のペンネーム・エピソードがあのジュリーのお口から読まれ「それではヘイ!ジュテームおかけしましょう〜」と....あとの事は興奮しすぎてあまり覚えていません。
今思えば録音さえしていたら貴重な宝物になったのに...残念です^^;byたか
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